2017年の大河ドラマ『おんな城主直虎』の主人公・井伊直虎とはどのような人物なのか?
歴史好きでもあまり知られていないこの人物がなぜ今、大河ドラマの主人公に選ばれたのか。
どのような人生を歩み、どのような魅力を備えた人物なのかを調べてみました。
井伊直虎とは?
井伊直虎(祐圓尼、次郎法師)
生誕:不明
没年:天正10年8月26日 (1582年9月12日)
当時の井伊家当主・井伊直盛の娘として誕生した直虎。
幼名は不明ですが、ドラマでは「おとわ」と名付けられています。
直盛には男子がおらず、直盛の従兄弟にあたる井伊直親を直虎の婿養子に迎えて家督を継がせる予定でした。
しかし、天文13年(1544年)井伊家の家老だった小野政直の讒言により、直親の父・直満が、今川義元への謀反の疑いをかけられて自害。
直親は難を逃れて信濃に逃亡します。
直親と許嫁であった直虎はその誓いを守ることもあって叔父の南渓和尚がいる龍潭寺で出家し、次郎法師と名乗ります。
ちなみに「次郎法師」とは、当時の井伊家の惣領だった「次郎」と「法師」を繋ぎ合わせたものです。
一方、信濃に隠れていた直親は井伊家の家臣・奥山親朝の娘と結婚し、弘治元年(1555年)に今川家家臣として復帰を許されます。
直親を想っての出家だった直虎にとっては辛いことだったでしょうが、戦国時代では結婚による血縁が一族の命運を分ける重要なファクターだったため、致し方ないこととあきらめるしかなかったのですね。
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いにおいて直虎の父・直盛が戦死すると、直親がその後を継ぎます。
しかしその2年後の永禄5年(1562年)、直親の父・直満を死に追いやった小野政直の子・道好(政次)が、今川氏真に対して、直親が謀反の疑いありと讒言します。
その結果、直親も今川氏真によって自害に追いやられてしまうのです。
親と親、子と子がそれぞれ同じ対立軸で讒言する者と自害させられる者になるという何とも数奇な運命ですね。
ドラマではこの直虎、直親、政次は、幼いころからの友達であり、また恋の三角関係的なものであったように描かれるようで、それぞれ柴咲コウ、三浦春馬、高橋一生、というキャスティングは恋愛ドラマとしても見応えがあるのではないでしょうか。
おんな城主直虎誕生
さて、直親を失った井伊家は、新野親矩(左馬助)の擁護により息子の虎松(のちの井伊直政)らは救われたものの、永禄6年(1563年)、その新野親矩や重臣の中野直由らが引間城攻めで討死し、家中を支えていた多くの家臣を失ってしまったのです。
その結果、龍潭寺の住職となっていた叔父の南渓瑞聞(和尚)と直盛の妻で母・祐椿尼(千賀)が相談のうえ、次郎法師を「直虎」と名乗らさせて還俗させ、虎松が成長するまでの間、井伊家の当主にすることにします。
こうして、「おんな城主 直虎」が誕生。
ちなみに、当時は「女地頭」とあだ名されていたようです。
ドラマでは小林薫さんが演じるこの南渓瑞聞(和尚)が一計を案じたこの「次郎法師の還俗計画」は実に妙案です。
龍潭寺の後ろ盾を使って直虎に宗教的な権威をもたせる一方、井伊家の当主として領地を支配する正当な権利を持つことができれば、女性である直虎でも領地や家臣をまとめ上げることができると考えたのです。
この南渓和尚の計画と、直虎の当主としての器量が上手くはまり、直虎は井伊家の領地、井伊谷を次第にまとめ上げていきます。
井伊谷徳政令
直虎が最初に行ったのは、今川氏真から出された徳政令を拒否すること。
徳政令とは、借金の帳消しのこと。
つまり、農民たちから年貢を取ることを禁止する令ということです。農民にとってはありがたい話ですが、井伊家にとっては財源を失うことになってしまいます。
これは井伊家の弱体化を図る今川氏真と小野政次による策略だと言われていますが、これを直虎はあの手この手で拒否し続けます。
ただ単に徳政令を拒否するのでは農民や今川からの非難は避けられず、逆に受けてしまえば井伊家は滅亡しかねません。
そこで直虎は、龍潭寺を保護する代わりにお金を借り、さらに有力な商人である瀬戸方久を優遇する一方で資金を調達していきます。
その一方で今川へは領民への説明などを理由に徳政令の発令を遅らせ、準備が整ったところで井伊谷徳政令を発令しました。
瀬戸方久を演じるのは癖のある演技が特長のムロツヨシさん。
一筋縄ではいかなさそうなこの人物との交渉を上手く乗り切るあたりなど、直虎の交渉術の高さがうかがえそうです。
こうして領地を上手く納めていくことが評価され、「女地頭」というあだ名がついたものと考えられます。
しかし、ついに今川からの圧力に屈した直虎は地頭を罷免され、井伊谷城城主の座を小野政次(道好)に明け渡すことになってしまいました。
今川家の衰退
井伊谷の支配に成功した小野政次だったが、その栄華は長く続きませんでした。
今川と同盟を組んでいたはずの武田が、徳川と組んで今川領内へ侵攻。
これに井伊谷三人衆と呼ばれた近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久が呼応して反旗を翻します。
城を追われた小野政次は徳川に捕らえられ、直虎から直親を自害に追いやった讒言を責められ処刑されてしまいます。
史実では小野家のために井伊家を陥れてきた人物として考えられている小野政次ですが、ドラマでは直虎との幼少期からのつながりが示唆されるなど、彼なりに井伊家のために働いていたのでは?という見方で描かれる可能性がありそうです。
もしかすると死に至る経緯も、直虎から責められるのではなく、逆に助命嘆願されるものの自らその汚名を被って自害、というようなこともあるかもしれません。
ちなみに小野政次(道好)の弟・小野玄蕃(道高)の息子・小野朝之は、のちに徳川家に出仕した井伊直政に仕え、その重臣となっています。
小野政次から井伊谷城を取り戻した直虎でしたが、その後は武田の山縣昌景に攻められ再び城を失い徳川家に身を寄せます。
三方ヶ原の戦いなど、その後も劣勢に立たされる徳川家の中で直虎がどのように立ち回ったのかは資料がほとんど残っておらず、ドラマでどう描かれるのか楽しみです。
その後、武田信玄の死をきっかけに攻勢に転じた徳川軍により、井伊家はようやく井伊谷城を取り返すことができたのです。
虎松の仕官と直虎の最期
直虎は、これまで隠してきた直親の息子・虎松を徳川家に仕えさせるため、南渓和尚らと策を練ります。
まず、虎松の母が松下源太郎と再婚して松下家の養子となり、その上で鷹狩りにきていた家康を待ち伏せして二人を引き合わせます。
そして家康に、虎松と井伊家のつながりを語り井伊家を名乗ることの許しを得たうえ、家康の幼名から「千代」の名をもらい、「万千代」と名を改めます。
さらに家康の小姓として300石を与えられ召しかかえられることに成功しました。
ドラマではこの井伊直政は、若いながら演技の振れ幅が大きい役者として評価が高い菅田将暉さんが演じます。
見た目のオーラがある方なので、鷹狩りで家康に見初められるシーンは想像に難くありませんね。
直虎は万千代に家督を譲り、万千代が井伊直政として元服した天正10年8月26日(1582年9月12日)、その生涯を終えます。
直虎の死後、直政は徳川四天王に数えられるほどの人物になり、徳川家で代々重要な任を歴任する家系へと発展を遂げるのです。
井伊直虎は男だった?
これが概ね、史実として語られている井伊直虎の生涯とその人物像ですが、2016年12月、井伊家の子孫が「井伊直虎は男だったのでは」とする説を発表して話題となっています。
この説によると、井伊直盛の娘で「次郎法師」を名乗った人物とは別に、今川家からやってきた「次郎直虎」という男子がおり、二人は別人である、というのです。
新たに見つかった資料によると「井伊直虎」はこの「次郎直虎」である可能性の方が高いそうです。
もしこの説が正しかったとしても、これまで語られてきた「おんな城主直虎」が全て創作ということはないでしょう。
実際、直虎以外にも女性で城主となった人物は他にもいます。
いずれにしても、大河ドラマ化で井伊直虎に注目が集まることで調査は進みやすくなるでしょうから、真実が明らかとなるのもそう遠くはないかもしれません。
tetsutyler-durden.hatenablog.com